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里山はartの場?/『ケルトの魂』より

鶴岡真弓さんの『ケルトの魂』という本を読了しました。音楽・写真・祭・神話…様々な角度から、対談を通してケルトの文様文化について記している本です。鶴岡真弓さんの紡ぐ言葉の響きが美しく、アイルランドと日本の不思議なつながりを感じずにはいられない内容です。

私にとって、本はイマジネーションを与えてくれるものです。努力して読む、勉強のために読むといったものでは無くなり、少し先の未来を想像させてくれ、本から本へと渡り歩いているうちに、現実世界でも行動や学びを重ねて、気がつけば自分がまた別のステージに居る(そして、また別の本と出会う)、という感覚です。そうした意味で、『ケルトの魂』はいくつものイマジネーションを与えてくれる本でした。本日は、『ケルトの魂』の中から、芸術的存在についてまとめていきたいと思います。

芸術的な存在とは

Sense of Order/規則的秩序

著書の中に、「Sense of Order」という言葉が何度か出てきます。「規則的秩序」ともありますが、字の如く、たんたんと機械的に、規則的に進んでいく物事や日々、ハレとケであればケ、何かをKeepする。そういったごく普通の日常のようなもの、ルーティンのようなものです。

一方で、それを壊す、打破する存在が突如現れる事があり、ハレとケの関係ではハレのようなお祭りのような、特異なものにあたります。私は、もしかしたら、これに対峙する言葉は「Senso of Wonder」(レイチェル・カーソン)なのではないか、と思ったのですが、これはまた別の機会にまとめたいと思います。

この、「Sense of Order」/規則的秩序と、それを打破するものが常にせめぎ合うもの、それが芸術だと著書には有ります。

生け花での例え

また、生け花を通しても上記の芸術について書かれています。存在としての花、自然物の花は、人の手を通すこと(生け花という作品になる)によって、「華がある」という意味での「花」に変容するのです。

人の手を介す、という意味ではart(人為的、人がつくったものという意味で)という言葉にとても近い表現であり、とてもわかりやすい例えのように感じます。

規則的な秩序と、そうではない理解しがたいものとの合間を、両者ともを見つめながら(言葉に出来ない思いと、言葉にしなくては理解されないというせめぎあいのようなもの)、自分の手で何かを形作る(それは、自然を人の手によって改変する行為)、という精神性を伴った活動であると思いました。

里山の芸術性

視点が変わりますが、私の活動の一つに里山でのあそびというものがあります。この里山という存在が、この存在自体がartであるように感じたのです。里山とは、もともと、自然界と人間界の境界線のような役割と定義されています。この、山という自然を、自分たちを元気にするため、癒やすために、作り変えるという行為に、生け花的な花の改変にとても近いものを感じたのです。

また、以前の里山活動の中で、普段の里山遊びでは、大人が子どもの活動を制限してしまいがちだが、一度それを極力取り払い、子どもの願いを尊重したり、大人自身も童心に帰る気持ちで山を楽しもうということをやりました。その日は、里山の遊び場に大人と子どもの楽しそうな声が響き渡りました。それは、普段の「Sense of Order」の生活から解き放たれ、一方で、里山という決して安全とは言えない環境で(クマやイノシシが出ますし、崖から落ちるような危険もあります)、自分たちをどう開放していくかという、せめぎあう精神性も存在しているのです。

日本には、里山として開放された場所がたくさんあると思います。その全てを見てきたわけでは有りませんが、きっとそれぞれにテーマ性をもち、活動しているのだと思います。私の携わる里山は、芸術・artを通して見つめていきたいと思いました。幸い、この土地は芸術による町おこし、アーティストの移住なども進めている、artに関係の深い町にあるのです。

次の大型連休には、子ども・家族・アーティストが集い、山でのアート活動をやってみたいと目論んでいます。きっとそこで、次のテーマが見つかるのだろうと思います。

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