カテゴリー: アートのこと

「あわい」の時間

昨夜は、写真家 齋藤陽道さんと医師 稲葉俊郎さんのトークショーへでかけてきました。排泄の話から、稲葉さんが齋藤さんの写真から感じた「あわい」の話へ。一夜明けて、あれは夢だったのではないかという、まさに「あわい」の夢心地な時間でした。

齋藤陽道さんの写真との出会い

齋藤陽道さんの写真を、意識して初めてみたのは、2019年夏の原宿・デフアート展でした。複数の作家さんが作品展示している中で、唯一、名前と作品を覚えていたのが齋藤陽道さん。当時妊婦だった私は、赤ちゃんや、お母さんと赤ちゃんの写真に惹きつけられ、衝撃を受けて、だれの作品なのかとキャプションを見ました。普段なら、メモでも取らないと忘れてしまうのですが、本当になぜだか、忘れずに覚えていたのです。

私は、本は多く読む方だと思いますが、雑誌はあまり読みません。毎月買っている「暮らしの手帖」に絵本や子育て関係の雑誌をたまに買う程度です。その僅かな雑誌に、毎回のように登場してくださるのが齋藤陽道さん。写真と文書が載っています。「あ、この方は原宿で見た写真の方だ」と思い出し、「暮らしの手帖」での連載も楽しみにしていました。

ある時、全てを言葉で伝えなくてはいけないこと、それを強いること、言語情報が自分に浴びせられることにひどく疲れていました。同時期、子どもが言葉の勉強をはじめて、家で「あいうえお」の勉強をしているのを見て、寂しいような、とてつもなく悲しい気持ちになりました。言葉は、便利な道具、言葉で伝えあう必要性はよくわかっているつもりですが、言葉第一だと言われているようで、悲しくなったのだと思います。

そのとき、齋藤陽道さんが同じような内容で雑誌に寄稿されていたことを思い出し『声めぐり』という、著書を読みました。言葉に対する答えが書かれているわけでは有りませんでしたが、すっかり齋藤陽道さんファンになりました。過去に、ブログにもそういえば書いていました。(過去記事「今日は触覚の日」

なぜか、アーティストの方の書く本を読んで、すごく好きになるということが多いです。高木正勝さん、寺尾紗穂さんも、本を読んでから特別な思い入れが生まれました。

「あわい」が答え

言葉疲れ、不安から一ヶ月以上経って、参加した昨夜のトークショー。実は、昨年末の恵比寿 写真美術館でのトークショーにも行きたかったのですが、来客の予定と重なり見送ったのでした。その時参加できていたら、今回はなかったかも。と思うと、偶然のような必然の導きでした。

稲葉俊郎さんが子ども時代から感じていた、「言葉」からこぼれ落ちたものへの危機感。言葉にできないもの、言葉にならないもの、言葉では伝わらないもの、それが「あわい」。覚醒している状態、言語、規律、そのどれでもないもの。無意識、眠りの時、身体・生命そのもの。こうしたものを、子どもの頃にはしっかりと感じられたはず。言葉にできないからこそ、そのなにかが常に一緒にいたはず。それが失われると、バランスが崩れてしまう。それが身体にも露呈する。私が、子どもが言葉を学んでいるときに感じた不安はこれでした。

意識・無意識は、どちらも必要なのですが、「あわい」だけが足りない状態で不調をきたすことが、今の人間には多いのだと思います。正体が分かれば、恐れることでもなく、「あわい」を感じられる体験を、沢山、こどもと一緒にしたい。「あわい」の蓄積、培いをしたいと思いました。

写真に感じる、惹かれるなにかは「あわい」だったのですね。お二人でのお話だからこそ、紡ぎ出せたものだと思います。帰宅後が、忘れずに稲葉俊郎さんの本を2冊注文してから眠りました。

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里山はartの場?/『ケルトの魂』より

鶴岡真弓さんの『ケルトの魂』という本を読了しました。音楽・写真・祭・神話…様々な角度から、対談を通してケルトの文様文化について記している本です。鶴岡真弓さんの紡ぐ言葉の響きが美しく、アイルランドと日本の不思議なつながりを感じずにはいられない内容です。

私にとって、本はイマジネーションを与えてくれるものです。努力して読む、勉強のために読むといったものでは無くなり、少し先の未来を想像させてくれ、本から本へと渡り歩いているうちに、現実世界でも行動や学びを重ねて、気がつけば自分がまた別のステージに居る(そして、また別の本と出会う)、という感覚です。そうした意味で、『ケルトの魂』はいくつものイマジネーションを与えてくれる本でした。本日は、『ケルトの魂』の中から、芸術的存在についてまとめていきたいと思います。

芸術的な存在とは

Sense of Order/規則的秩序

著書の中に、「Sense of Order」という言葉が何度か出てきます。「規則的秩序」ともありますが、字の如く、たんたんと機械的に、規則的に進んでいく物事や日々、ハレとケであればケ、何かをKeepする。そういったごく普通の日常のようなもの、ルーティンのようなものです。

一方で、それを壊す、打破する存在が突如現れる事があり、ハレとケの関係ではハレのようなお祭りのような、特異なものにあたります。私は、もしかしたら、これに対峙する言葉は「Senso of Wonder」(レイチェル・カーソン)なのではないか、と思ったのですが、これはまた別の機会にまとめたいと思います。

この、「Sense of Order」/規則的秩序と、それを打破するものが常にせめぎ合うもの、それが芸術だと著書には有ります。

生け花での例え

また、生け花を通しても上記の芸術について書かれています。存在としての花、自然物の花は、人の手を通すこと(生け花という作品になる)によって、「華がある」という意味での「花」に変容するのです。

人の手を介す、という意味ではart(人為的、人がつくったものという意味で)という言葉にとても近い表現であり、とてもわかりやすい例えのように感じます。

規則的な秩序と、そうではない理解しがたいものとの合間を、両者ともを見つめながら(言葉に出来ない思いと、言葉にしなくては理解されないというせめぎあいのようなもの)、自分の手で何かを形作る(それは、自然を人の手によって改変する行為)、という精神性を伴った活動であると思いました。

里山の芸術性

視点が変わりますが、私の活動の一つに里山でのあそびというものがあります。この里山という存在が、この存在自体がartであるように感じたのです。里山とは、もともと、自然界と人間界の境界線のような役割と定義されています。この、山という自然を、自分たちを元気にするため、癒やすために、作り変えるという行為に、生け花的な花の改変にとても近いものを感じたのです。

また、以前の里山活動の中で、普段の里山遊びでは、大人が子どもの活動を制限してしまいがちだが、一度それを極力取り払い、子どもの願いを尊重したり、大人自身も童心に帰る気持ちで山を楽しもうということをやりました。その日は、里山の遊び場に大人と子どもの楽しそうな声が響き渡りました。それは、普段の「Sense of Order」の生活から解き放たれ、一方で、里山という決して安全とは言えない環境で(クマやイノシシが出ますし、崖から落ちるような危険もあります)、自分たちをどう開放していくかという、せめぎあう精神性も存在しているのです。

日本には、里山として開放された場所がたくさんあると思います。その全てを見てきたわけでは有りませんが、きっとそれぞれにテーマ性をもち、活動しているのだと思います。私の携わる里山は、芸術・artを通して見つめていきたいと思いました。幸い、この土地は芸術による町おこし、アーティストの移住なども進めている、artに関係の深い町にあるのです。

次の大型連休には、子ども・家族・アーティストが集い、山でのアート活動をやってみたいと目論んでいます。きっとそこで、次のテーマが見つかるのだろうと思います。

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ポール・アイズピリ作品との出会い

先日、有楽町から銀座を予定を決めずに歩いていたら、一緒にお付き合い頂いたKyokoさんが「ここ、見てみたい」とある画廊に連れて行ってくれました。

そこは、銀座の「ギャルリー ためなが」さん。2019年2月14日〜2019年3月31日まで画家 ポール・アイズピリ生誕100周年の記念展示が行われていました。こちらのギャラリーさんは、契約作家としてアイズピリとお付き合いが合ったようです。

暖かい家族の絵、美しい女性の絵。入ってすぐ目に入ってきた作品は、比較的最近のもので、楽しい色使いや暖かさを感じました。描かれている物の色は、何色であってもそんなに違和感は無いのに、人の肌の色が青や緑で描かれていたり、ドットの模様があったりすることに、私は違和感を感じるようです。

美しい女性が描かれている絵画、腕が青・緑でした。人は、単なる一つの色では表せないこと、色んな色を持っていていいんだよと絵が語りかけているようで、それはきっと私にとっての必要なメッセージでした。やっぱり、絵に感じることは、自分自身のことなのかなぁと思いました。

すっかりこの画家さんの絵が好きになりました。


2016年1月22日に他界されたそうです。ギャラリーにいらっしゃた人の話では、年々色味に明るさが増していったこと、構図はもう頭の中で決まっていて、それに色味をつけるという描き方をされていたとのこと。日本語のサイトはではあまり詳しいプロフィールが有りませんが、このサイトの情報が一番経歴が分かるように思います。

Spice:https://spice.eplus.jp/articles/35250

日本では、尾道にある別名「アイズピリ美術館」、「なかた美術館」で作品が見られるようです。偶然にも、この丁度数時間前に、広島からいらした作家さんとお話をしていたところでした。


描かれた年代ごとに絵を見ていると、初期の頃の作品は暗い色づかいをされていました。徐々にモチーフが家族・子どもになって、色も楽しいと感じるものに変化している気がします。

12月にパナソニック 汐留ミュージアムでみた、同じくフランスの画家、ジョルジュ・ルオーの作品の変化にも同じものを感じます。初期は「受難」をテーマに作品を制作、次第に周囲の人や世界に暖かい愛を向けるような、内面の輝き・暖かさ・神聖さなどを感じる絵が増えているなと感じました。

ルオーもアイズピリも、命日が私の近しい人の誕生日と同じでした。

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