さめても、しらけてもいない

今日は感情が大きく揺れました。「わかりやすく、一番を目指したほうが社会のために良い。オンリーワンで良いことになるから、しらけにつながる」のだと。言葉じりでは、その方の言っていることがわかるのですが、私には、「ちょっとよくわからない、なんのこと?」と感じて、悲しくなったのです。久しぶりに自暴自棄になった気がします。

私のイメージする先のこと、未来のことには、こうした言葉・キーワードが全く存在しなかったのです。それで水と油のように反発して、全く自分の中に入ってきませんでした。

しらけているのは、誰なんでしょうか。若者と言われる人たちでしょうか。私の周りには、私よりも歳の若い方で、しらけている、と感じる人はあまりいません。それぞれに、一生懸命です。

うちにいる娘たちは、2人ともいつも楽しそうで、素直に喜んだり、たまに大泣きしたりします。感情を楽しんでいます。夫に、今日の娘の様子をはなすと、「ママの前だと、●●ちゃんはおもしろいね」と言われました。夫の前では、真面目にしているそうです。

ご縁があってお話した女性の方は、とっても感情が豊かな方で、自分の本当のことを話すと涙が出てしまうそうです(私もおんなじです)。だから、会社では、すごくそっけなくしている、と教えてくれました。会社で、涙を流してしまったら、みんなをびっくりさせてしまうから、そうしているそうです。

そっけない、さめてる、しらけてる、何事にも興味がない、と感じる人は、本当に「そういう人」なわけではありません。本当の自分を表現して、エネルギーを出せない、そういう環境にいるだけです。違う顔があるはず。

わかりやすいヒーローも大事ですが、全部出しても大丈夫、と思える場所が必要です。

自分が、そういう場所になろうという決意を込めて。

ちなみに、冒頭の言葉を紡いだのは今日が誕生日の夫です。テレビの前の誰かの言葉だったら、特に気にもかけなかったでしょう。

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里山はartの場?/『ケルトの魂』より

鶴岡真弓さんの『ケルトの魂』という本を読了しました。音楽・写真・祭・神話…様々な角度から、対談を通してケルトの文様文化について記している本です。鶴岡真弓さんの紡ぐ言葉の響きが美しく、アイルランドと日本の不思議なつながりを感じずにはいられない内容です。

私にとって、本はイマジネーションを与えてくれるものです。努力して読む、勉強のために読むといったものでは無くなり、少し先の未来を想像させてくれ、本から本へと渡り歩いているうちに、現実世界でも行動や学びを重ねて、気がつけば自分がまた別のステージに居る(そして、また別の本と出会う)、という感覚です。そうした意味で、『ケルトの魂』はいくつものイマジネーションを与えてくれる本でした。本日は、『ケルトの魂』の中から、芸術的存在についてまとめていきたいと思います。

芸術的な存在とは

Sense of Order/規則的秩序

著書の中に、「Sense of Order」という言葉が何度か出てきます。「規則的秩序」ともありますが、字の如く、たんたんと機械的に、規則的に進んでいく物事や日々、ハレとケであればケ、何かをKeepする。そういったごく普通の日常のようなもの、ルーティンのようなものです。

一方で、それを壊す、打破する存在が突如現れる事があり、ハレとケの関係ではハレのようなお祭りのような、特異なものにあたります。私は、もしかしたら、これに対峙する言葉は「Senso of Wonder」(レイチェル・カーソン)なのではないか、と思ったのですが、これはまた別の機会にまとめたいと思います。

この、「Sense of Order」/規則的秩序と、それを打破するものが常にせめぎ合うもの、それが芸術だと著書には有ります。

生け花での例え

また、生け花を通しても上記の芸術について書かれています。存在としての花、自然物の花は、人の手を通すこと(生け花という作品になる)によって、「華がある」という意味での「花」に変容するのです。

人の手を介す、という意味ではart(人為的、人がつくったものという意味で)という言葉にとても近い表現であり、とてもわかりやすい例えのように感じます。

規則的な秩序と、そうではない理解しがたいものとの合間を、両者ともを見つめながら(言葉に出来ない思いと、言葉にしなくては理解されないというせめぎあいのようなもの)、自分の手で何かを形作る(それは、自然を人の手によって改変する行為)、という精神性を伴った活動であると思いました。

里山の芸術性

視点が変わりますが、私の活動の一つに里山でのあそびというものがあります。この里山という存在が、この存在自体がartであるように感じたのです。里山とは、もともと、自然界と人間界の境界線のような役割と定義されています。この、山という自然を、自分たちを元気にするため、癒やすために、作り変えるという行為に、生け花的な花の改変にとても近いものを感じたのです。

また、以前の里山活動の中で、普段の里山遊びでは、大人が子どもの活動を制限してしまいがちだが、一度それを極力取り払い、子どもの願いを尊重したり、大人自身も童心に帰る気持ちで山を楽しもうということをやりました。その日は、里山の遊び場に大人と子どもの楽しそうな声が響き渡りました。それは、普段の「Sense of Order」の生活から解き放たれ、一方で、里山という決して安全とは言えない環境で(クマやイノシシが出ますし、崖から落ちるような危険もあります)、自分たちをどう開放していくかという、せめぎあう精神性も存在しているのです。

日本には、里山として開放された場所がたくさんあると思います。その全てを見てきたわけでは有りませんが、きっとそれぞれにテーマ性をもち、活動しているのだと思います。私の携わる里山は、芸術・artを通して見つめていきたいと思いました。幸い、この土地は芸術による町おこし、アーティストの移住なども進めている、artに関係の深い町にあるのです。

次の大型連休には、子ども・家族・アーティストが集い、山でのアート活動をやってみたいと目論んでいます。きっとそこで、次のテーマが見つかるのだろうと思います。

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今日は触覚の日

言葉で伝えることに 疲れてしまったときに借りた 『声めぐり』(齋藤陽道さん著)。齋藤陽道さんは、聴覚に障がいのある写真家さんです。いつも買っている雑誌で読んだエッセイを見て、伝えたいことをすべて、言葉に変換することについての疑問に寄り添ってくれた気がして、以来、写真や文章にも触れてみたいと思い読んだのがこの本です。

言葉じゃないものとは、表情、仕草、匂い、、、など、色々と想像を膨らませていましたが、読み終えて得られたものは、「触れる」、「触覚」でした。

視力が大人よりも弱い赤ちゃんが頼りにするもの、それが触覚。

こだわりの布でつくられた赤ちゃんへのおくるみを、自分でも触れてみたら心地が良くて、ずっと包まれていた話。それは、先日聞いた、シュタイナーを研究する若き哲学者、竹下先生の講演とのつながりを感じました。触覚は、人間の原体験、産道を通るその感触を記憶して出てくるのだということ。お気に入りの布に包まれて、「触覚」の原体験を味わう時間もあり、私も齋藤さんと同じことしたなーという思い出にもつながるお話でした。

子どもの頃の父親の記憶は、触覚に宿っていた話。

私のところにも、月齢3ヶ月の赤ちゃんが居てくれているので、その子を想いながら、読んでいました。

少し前に、陣痛の度に、お母さんの産道はガチガチからふわふわになって、そのふわふわの産道を赤ちゃんが通ってくるという話を聞きました。もっと早く知っていたら、お産がもっと幸せな時間だったかもしれないな、なんて想いました。

今朝は、熱を出した4歳の長女を兵児帯でおんぶして、病院へ連れていき、背中がとても温かかったです。今日、雨が降っていなかったら、バギーに乗せて連れて行っていました。

兎に角、今日は触れることに溢れた日でした。それが、齋藤さんの本によって、より際立った気がします。

家族にたくさん触れたいなぁ。

お手当ってやっぱりいいなと実感です。

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癒しの星の使命

しばらく、産後は自宅で子どもとゆっくりと過ごし、会社勤めから離れています。もう会社員はやめようと、思って、もう準備は出来たと思っていましたが、どうしても折り合いがつかないことがあり、もう一度だけ、会社勤めに戻ることになりました。

思い通りにならない経験・体験を久しぶにしました。明らかに会社にいる自分に拒否反応を起こして、夜に観ようと思っていた映画も観たくなくなってしまい、気持ちが落ちているなぁと感じた昨夜から今朝。

朝も、何ヶ月ぶりかのため息まで出てくる始末、でしたが、回復するのも早いのが私の特徴です。つらい経験、思い通りにならない体験、辛い、痛い、いっぱいありましたが、この経験が出来たら、色んな人に寄り添えるな…と、有り難い気持ちで満たされています。きっかけは、今まで、夫が会社が嫌で仕方がないという気持ちに、やっと寄り添えたような気がしたこと。自分自身も勿論会社員でしたが、「いつかは辞める、これで最後」と思っていたがゆえに、会社に所属することの辛さを少し避けていました。でも、やっと向き合えたことで、同じ思いを体験出来たと思ったのです。

この前体験した出産も、二人目だけど自然分娩は初体験の中で、強烈な痛みの体験。私にとってはすごく大切なものだと、今感じています。

9月にホロスコープを見てもらいました。私の産まれた朝の空には、キローンという心の傷を表すような星が居るそうです。でも、そこに寄り添うようにいる木星の力で、心の傷を癒しの体験に変えていくことができるとも。きっと、私が今、辛い・痛い・苦しい体験を、他の人たちを助けるために選んでいるのだろうな、私にとっては、かけがえのない体験なんだと思います。

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男の子のエネルギー

『暮しの手帖』第5世紀、2号を買いました。レビューで料理本のよう、とあったのですが、確かにと思うその中でも、好きだった記事。野田直太朗くんとお母さんの直子さんとのお話。ダウン症の直太朗くんのギフトに心を動かされました。

素直な男の子のエネルギー

文章と写真から伝えられる、絵の具と自由に弄れる姿、車の屋根に登って星を仰ぎ見る姿。そこから感じたのは、「健康・健全な男の子」でした。そして、私はそういう人が大好きなんだとも思いました。憧れというか、自由な姿に恋しているようなそんな感覚です。私は女性として、男性が持っている素直な男の子のエネルギーに強く惹かれていると思いました。

受け止める女性性

そんな直太朗くんを、何が合っても受け止めるお母様の直子さん。女性性の器、器量ってそういうことなだろうなと思います。男性性を恐れず発揮していくために、「それでいいよ」って見守ってくれる、受け入れてくれる女性の存在がとても必要なんだと思いました。

私が、いつまでも直太朗くんのような素直に感情に、感性に従って動き続ける人が好きならば、その人に、家事を完璧にして欲しいとか、もっとスマートに生きてほしいとか、そんなこと期待するのは、相手に対する過剰な期待だなと思います。好きなんだから、自分で選ぶんだから、そういうところは覚悟するしかないよなと感じます。

しっかりものの男性がいてもいいのですが、本来持っている性質がそうでないならば、自由な姿をそのまま見せてくれたほうが、社会が前進するし元気になるんだろうなと思います。私はそんな器でいようと思いました。

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